住宅専門紙「新建ハウジング」の発行人(社長)が、
住宅ビジネスのヒント・トピックをつづります。


2014年05月18日

なんで工務店向けのメディアをやっているの?

新建ハウジングプラスワン


※2008年9月の投稿の再掲です。気持ちはまったく変わっていませんね。
 最近は工務店さんへの注目度がどんどん高まっているので、他のメディアさんといろいろかぶことが増えてきましたw

たまに、なんで工務店向けのメディアやってるの?と聞かれることがあります。もっとぶっちゃけて「大企業を相手にしていた方が儲かるし、派手だし、つぶしも効くでしょ」と言ってくる人もいます(建築家向けのものでなければ建築メディアじゃない、と言われたこともあります)。

なるほどそういう面もあるかもしれません。住宅ライターや評論家のなかには、大企業(著名建築家)としか付き合わず、「あの社長(建築家)知ってる」とか「あの会社(建築家)のパーティーに呼ばれた」ということをモチベーションにしている人もいると思います。全然それは否定しません。そんな生き方もある。

僕はしっかり家をつくっている工務店の社長をたくさん知っているし、そんな工務店が集まる飲み会にも参加させてもらえる。それがモチベーションになっています。こんな生き方もある。


ただ、先ほどの人のように、まだまだ大企業志向が根強いのも事実。工務店もハウスメーカーと常に比較され、悔しい思いをしているのだと思います。

僕が編集している新建ハウジングも全国紙ですが、母体は長野県の中小企業。ぽっと出てきた新参者で、ブランドもノウハウも人も金もないところからスタートしました。だからよけいに大手を向こうにまわしてがんばっている工務店に共感できるのかもしれません(工務店向けのメディアをやっている理由はもちろんそれだけではなく、家づくりは地域の産業で工務店(+設計事務所+職人)が担うのが誰にとっても合理的だから。また工務店の家づくりがもっと良くなれば、年間20万もの家族がもっとハッピーになるから、です)。

最近は、単体でもハウスメーカーを凌駕する家を建て、人材をそろえる工務店が増えてきたと感じますし、昔ながらのやり方でいい家を建て、地域で信頼を得ている工務店もまだまだあります。またそんな工務店の連携も進んでいます。そんな記事を書きながら、こんなことを考えていました。
posted by miura at 00:13| 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

雑感、予算編成と政府の再建に関するドラッカーの視点

[2010年のブログの再掲です。状況はまったく同じだと思います]

ドラッカー先生は、国の予算編成についてこう述べています。

最悪の事態として、国家はばらまき国家となった。予算編成が歳出からスタートするならば、徴税に節度がなくなる。歳出は、政治家が票を買う手段となる。

(中略)ばらまき国家は自由社会の基盤を侵食する。国民の金で票を買うことは、市民性の概念の否定である。事実、そのように見られている。
[出所「ポスト資本主義世界」]

ケインズ的福祉国家の理論が正しければ、国家が金で困るはずはなかった。歳出が経済を刺激し、資本形成と税収は急上昇したはずだった。そのうえ、瞬く間に巨額の財政黒字が実現したはずだった。

(前略)景気刺激のための政策が効果をあげた例はない。政府による景気刺激策は、景気の循環的な回復過程と一致したときのみ成果をあげる。そのような偶然は稀である。偶然の一致をもたらすための政策は、存在しない。
[出所「未来への決断]



また、政府の再建については、統治と実行の分離が必要だと説いたうえで、以下のように述べています。

実施、活動、成果という実行にかかわる部分は、政府以外の組織が行う(後略)。この原則は再民間化と呼ぶことができる。

再民間化とは、政府の力を弱めることではない。再民間化の目的は、病気で力をなくした政府に、能力と力を回復させることである。
[出所「断絶の時代」]

いずれも今の日本の現状を言い当てているような気がしますが、それはドラッカーが歴史を観察してきたからでしょう。ドラッカーは自らを経済学者ではなく社会生態学者と位置付けていましたが、経済学者の観点ではなく、観察者の視点でものを見て、とらえていたからこそ、普遍的な原則を見いだせたように思います。


ドラッカー名著集7 断絶の時代

ドラッカー名著集7 断絶の時代

  • 作者: ピーター・F・ドラッカー
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2007/07/13
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posted by miura at 07:00| 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

雑感、どうして「和モダン」が支持されるのか

最近、住まい手のヒアリングやアンケート調査などを見ると、「和」への共感が、特に若年層で高まっていることを感じます。


「和」とは何か、というのは深い議論で、とてもブログで書ききれるものではありません。

ただ、日本の文化は、もともと自国固有の「何か」を頑なに守り通す、一つの色に染め抜くというタイプではなく、文字通り「和」=外から来たものをいいとこどりして柔軟に取り入れ「共生」するタイプだということは言えるのかな、と思います。

古くは、採集・狩猟を基本とする縄文文化と稲作農耕をベースとする弥生文化の共生。

宗教にしても、万物に神を見るアニミズムが根付いていたにも関わらず、仏教のいいところを導入、後年にはキリスト教のいいところ(儀式とか)だけを取り入れて、(自分たちとしては)違和感なく共生させる。

天皇と幕府という権力(と象徴)の共生もその一例でしょうし、明治以降の西洋文明の取り入れ方もそうだと思います。


「共生」という言葉は建築の世界でも一時流行りましたが、「共生」はトレンドではなく、日本に根付いた「何か」(価値観なもの)だと思います。そしてそれが根付いた背景には、森を中心とする豊かな自然がある(自然環境が厳しい地域、アニミズムではなく一神教の地域では「共生」の価値観は根付きにくいと思います)。


共生の対語的な言葉として「競争」がありますが、こちら側の価値観は、そのままでは日本には馴染まない。いま、アメリカから持ち込まれた競争を是とする価値観からの揺り戻しが起きている中で「和」が再評価されているように見えますし、さらにその中でさらなる「和洋折衷」が生まれるのでしょう。


その点では洋のいいとこどりをする「和洋折衷」こそ「和」そのものだと言えますし、デザインの世界で言われる「和モダン」も和の進行形であり邪道とは言えないと思います。

住宅デザインでも、伝統的な「和」に縛られない無国籍とも言える「和」(和モダン?)が支持されていますが、こうした文脈で見てみると理解できるように思います。


また、こうした共生の姿勢・価値観は、グローバル化が進む現代こそ有効だと思います。世界に発信できるものだと思いますし、よく言われるグローバルとローカルの共生=「グローカル」も日本ならではの共生の在り方としてさらに進めることができるはずです。


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2010年11月04日

エコは「イマジン」から?

新建ハウジングでは創刊以来エコ、エコと言い続けてきたのですが、住まい手に話を聞いたり、アンケートをしたりすると、まだまだ「被害者意識」が強いな、と感じます。「加害者」としての意識を持っている方は少数派です。


被害者意識が強い方ほど、室内の環境、自分や家族の健康を守ること、光熱費の削減に一所懸命になり、そのための情報に敏感になります。

たとえば、クーラーや暖房をガンガンに使ってでも自分の周りは快適に保ちたい。花粉やアレルギーみたいなやっかいな問題から自分や家族だけは身を守りたい。自分たちの生活を防衛したいから光熱費を削減したい。こんな意識です。

こんな意識を否定するつもりは毛頭ありませんし、もちろん僕にもあります。特に今年の夏の暑さについては、自分もクーラーを使っているのにぶつくさ言ったものです。

またビジネス的にも、こうした誰もが持つ被害者意識に訴え、そのリスクから身を守るための提案やプロモーションのほうが人の注意を引き、成功をおさめます。逆に、温暖化や山の問題の解決をどストレートに加害者意識に訴える提案やプロモーションは難しい。なかなか消費や寄付に結び付かない。これは経験から言ってもそうです。


たとえば「もったいない」に始まる行動や光熱費の削減などは、自分のために行うことが環境のため、世の中人のためになる、という論法が成り立つので結果オーライなのですが、本当は「被害者意識」だけでなく、自分の活動が環境に何らかのダメージを与えているという「加害者意識」も同時に持つべきで、どう生きても自分たちは環境に対する加害者になるだから今までよりも少しずつ害を与えないように生きていこう、というのが本当の意味でのエコだと思っています。

ただ、害を与えた実感が得にくい、また罰則もないなかで「加害者意識」を持つということは、相当自分を厳しく律しなければいけない。さらに言えば想像力が必要です。

耐震改修が進まない最大の要因は「想像力の欠如」だという指摘があり、なるほどと思いましたが、エコでも同じかもしれません。

ジョン・レノンは「想像してごらん」と言いながら、続けて「僕のことを無想家と思うかもね」と歌いましたが、現代で想像力を持つことは簡単ではないのかも。環境教育の重要性が説かれ、そこに異論はありませんが、想像力を育むという視点も必要かな、と思っています。

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2010年06月12日

応援したい次世代経営者

先日、お世話になっている工務店さんの次世代経営者(要は次の社長)の話を聞く機会があり、感心しました。自身で理念を考え、それを浸透する取り組みをされていました(ドラッカーの読書会とか!)。キーワードは「つながり」「つなげる」です。


僕自身、経営で最もまずいのは「ブレること」だと思っています。もっと言えば、ブレるのはまだマシな方で「行きあたりばったり」というのはもっとまずいと思います。


市場が成長期のときは、ブレても、行きあたりばったりでも、数を打てば「たまたま」何かに当たって成功できました。また、そのなかで優れた「勘」を持つ経営者は当たる確率を高めることができ、成功者になれました。

ですが、現在の新築注文住宅のような成熟市場では、ブレたり、行き当たりばったりでは、「持続」し、次世代にタスキを「つなげる」ことは難しい。理念やビジョンを明確に持ち、旗を掲げ強みに集中して個性的に生きることが必要だと思います。


若い次世代経営者たちは、このことを本能的に感じているように見えます。

もうひとつは、政治を含め、親や上の世代のブレぶり、行き当たりばったりぶり、言行不一致ぶりにウンザリしていることもある。これではいけない、人がついてこないということを自分の実感としてもっている次世代経営者は、そこから抜け出そうとします。


もちろん理念やビジョンをもったからといってうまくいくわけではありませんし、それを進めていくと必ず理想と現実のギャップが立ちはだかります。でも、乗り越えてほしい。その気概をもつ次世代経営者たちを応援したいと思っています。
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2010年02月06日

学ぶ「場」の大切さ

Image000.jpg静岡に行きました。話を終えて、有志の方と懇親会へ。静岡おでん、黒はんぺんを初めていただきました。僕の口には合いました。おでんは見た目ほどくせがなく、黒はんぺんは見た目以上にくせがある。どちらもおいしかったです。

その後、「居酒屋評論家」も評価したという、とっておきの店へご案内いただき、今度は関西風のおでんとバターを使った絶品のネギ焼き(僕の大好物で自宅でもよく作ってもらいます)をいただきました。凛とした、それでいてきさくで話術の巧みな個性的なおかみさんの元に個性的な常連が集う、素敵なお店でした。


懇親会には、今回僕を推薦いただいた敬愛する社長さんを筆頭にユニーク(個性的)な人ばかりで、楽しく、また刺激を受けました。

そのなかの一人は、公的な仕事をされているのでお休みをとって参加されたのですが、木造建築の勉強会を毎月個人で主催されていて、毎月80人前後の建築のプロが参加しています。

講師は地元のみならず全国のトップランナーの実践者が務め、机上論ではなく実践的なレクチャーを行っています。

懇親会の参加メンバーも皆この勉強会にも参加されていて、この「場」のおかげで静岡の木造建築のレベルはおおいに高まっていると話されていました。

また、この「場」によって様々な人のつながり、絆が生まれ、それが個人の人生にも、そして仕事にも豊かな成果を生んでいるように感じました。

こうした「場」は全国にもあるのでしょうし、またもっと増えればいいなと思います。


冷え込んできた夜の静岡のまちを歩きながらその方に「○○さんが死んだ後、みんな○○さんのおかげで静岡の木造は進化したようなあ、と飲話すと思いますよ。飲み屋とかでも」と失礼なことを申し上げたら、「そう、そうなったらうれしいよね。それが僕の存在価値、存在証明だから」とおっしゃったのが印象に残りました。
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2010年01月19日

結局はやるか、やらないかだが、乗り越えることが必要

プライベートを含め、1月に入り4回旅に出ました。今月はあと2カ所です。

行く先々でたくさんの方にお会いしますが、結局は「やるか、やらないか」というシンプルなところが色んな面で「差」となって出てきているように感じます。


ただ、工務店の若手・次世代経営者などは「やりたい」と思っていても、先代が障壁となって「やれない」というケースもあるようで、それで「腐っている」ケースもみられます。

これは、現状も気持ちもよくわかりますが、「もったいない」と思います。結局乗り越えるしかない。どこかで「親父越え」をしないといけなくて、色んな経営者の物語を読んでも「息子が猟銃をつきつけて親父に引退を迫った」といった極端な例をはじめ、苦悩を経て乗り越えています。


ただ、「草食化」している若手・次世代経営者も少なくないとみていて、この「儀式」をできるかなあ、と思っています。

さらに難しいのは、親族以外に継承する中小企業です。「先代越え」をやることなくすうっとスムーズに「禅譲」してしまうと、経営者としてのアイデンティティが確立できないことがある。

「越える」というプロセスを通じて、人はアイデンティティを確立していくのだと思います。創業者は強力なエゴと表裏一体のアイデンティティをもっているのでいいのですが、「越える」→「アイデンティティの確立」というプロセスなしに経営をしていも、いずれしんどくなる。

悩ましいところです。

posted by miura at 09:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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